夏のぼうふら



女たちはワンサイズ小さい靴をほしがる。
それがアルバイトをはじめて2週間でぼくが会得した真理である。
たとえば、「24半はないかしら?」と訊かれたら、
躊躇うことなく、それより大きな靴も用意して持っていく。
それでなくても梅雨時特有のジメッとした空気は、
彼女たちの脚を溶けたバターのように膨張させてしまう。
だからぼくは今日も決して納まることのないガラスの靴まがいを抱えて、
店中を右往左往することになる。
然るに、彼女たちはまるでガリレオを裁判にかけた枢機卿のごとく、
天の声を聞いた図々しさでぼくに地動説を説き回るのだ。


「あんた、女性の脚ばっかり見てちゃだめよ」
休憩室で一服していると、隣の化粧品売場の女たちがぼくをからかう。
間近で見る彼女たちの化粧は皆一様に濃い。
厚く塗られたファンデーションの粉っぽい芳香が、
立ち上る紫煙とともに狭いスペースに充満して息が詰まる。
「おばさんばっかりですよ」
「あら、私たちだって似たようなもんよ。おばさんの脚じゃ不満なの?」
「そうじゃないけど、、、」
「照れちゃって、かわいいっ〜」キャハハハッと一斉に囃し声。
このような不毛な会話が毎日繰り返され、ぼくの苛立ちは積もる。
職業がどうゆうものかぼくにはまだわからないけれど、
彼女たちが今の仕事を愉しんでいるようにはみえなかった。
みんなどこか投げやりで意欲がなく、それが休憩時に一層露わになる。
ぼくにはワンサイズ小さい靴をほしがる気持ちが理解できなかった。


「ほらほら、あなたたち、もう時間よ!」
扉が開いて安西さんが顔を出した。そしてごめんねといった表情でぼくの顔を見た。
この閉塞した職場の中で、彼女だけが唯一無二の存在だとぼくは証言する。
年の頃は26〜7か。切れ長なひとみにややぼってりとした唇。
セミロングの黒髪を首の後ろできっちり束ねていて好感が持てる。
おまけに化粧のノリも悪くない。


「ほんとはね、若い君に興味津津なのよ。だから許してやってね」
安西さんはそう言うと、ぼくのとなりのパイプ椅子に腰かけた。
制服のタイトスカートから覗いた脚がなまめかしい。
「わたしにも一本ちょうだい?」
「どうぞ」
「ありがとう。今度お詫びにハイヒールでも買っちゃおうかな」
吹きだすように紫煙を口から吐いて言う。
人あしらいが上手い大人である。
ぼくは安西さんのほっそりとした脚がハイヒールに包まれる瞬間を想像した。


大学の授業はつまらなかった。
教授は自分の書いた経済書を買わせることに御熱心だ。
講堂のガラス窓には今日も雨の滴がつたっている。
前の席で久々に顔を見せた坂本が居眠りしていたので、後ろから小突いた。
どうせまた徹マン明けだろう。
ぼくは雨の向こうに靴売場で品定めする女性たちを思い描いた。
ぬぐいきれない蜘蛛の巣のような膜が目の前を覆っている。
さえない天気と閉塞感が退屈な授業をさらに重たいものに変えはじめ、
より一層ぼくの瞼を閉じさせるのだ。
結局ぼくらも彼女たちと同じように、
ワンサイズ下のプライドを持てあましているだけなのかもしれない。
ぼくは彼女たちに近づいてそっと告げる。
「いくら眺めたところで、あなたたちの足にピッタリはまる靴なんてありはしないんです」
ふと教壇を見ると、安西さんがハイヒールを履いて講義していた。
コツコツとした品のいい靴音が講堂中に響き渡る。
その姿勢は自信にあふれ、受け手に緊張を強いる。
そして彼女は言い放つ。
「商品の価値は、商品の生産に費やされる社会的に平均的な労働量によって決まる。
つまり、あなたの労働の対価は彼女たちへの奉仕によって保障されるってわけ」
授業終わり、ぼくは坂本をつかまえて言った。
「これから、ひと勝負しないか?」


安西さんを食事に誘った。
黄色いベールのような明かりの灯るレストラン。
ぼくは教室で見たハイヒールをプレゼントした。
今日は彼女の誕生日なのだ。
安西さんはたいそう驚き、よろこび、そしてセロファンをはいで靴をはいた。
ピッタリだった。
その頃には、ぼくは女性をひと目見ただけで靴のサイズが分かるようになっていたのだ。
「今夜はこれを履いて帰ろうかしら」
「外は雨ですよ」
「いいじゃない、うれしいんだから」と安西さんは微笑み、そして忠告した。
「ねえ、おぼえておきなさい。女って、そういうものよ」


梅雨の間に浄化槽で繁殖したぼうふらは、
夏を迎えていっせいに白い入道雲がたゆとう空に飛び出していった。
新しい血を求めて---。
そんな風にデパートの入り口で空を仰ぎ見る男の目は、
未だにむさ苦しいストックルームの中で、
ワンサイズ足らない靴を探して泳いでいた。